会長挨拶

手をつなぐ育成会は戦後間もなく1952年に結成されました。日本国憲法が出来たばかりで、日本はまだまだ古い因習や無知から来る偏見が根強く残っていましたから、会の名称を決めるのもたくさんの議論を経て決定されました。

当時、特殊学級の設置をめぐって、伝染するから自校に置くのは反対とのPTAの猛烈な反対運動や、特殊学級と普通学級との間に鉄条網を張るなど今では考えられない無知と偏見が世の中を覆っていたのです。

そんなとき、東大の重田医師が結核予防運動に例を引き、かっては遺伝として恐れられていた結核も、その名を恐れずに口にし、旗印を掲げて運動をし始めてから飛躍的に正しい知識が普及し対策も進んだことを説き、勇気を持って「精神薄弱児」を会の名に冠しようではないかと主張し、「精神薄弱児育成会」が第一候補になったと記念誌に書かれています。そんな熱気に溢れた活動が各地に小さなグループを芽生えさせていったとあります。教師が中心になるグループ、心理学者が中心になるグループ、親が中心になるグループもあったとあります。まだまだ差別や偏見が大きかった時代に、問題に気づきこれと取り組む使命感に燃えた人が中心になって全国育成会が出来上がっていったのです。

北海道手をつなぐ育成会も全日本育成会の結成から3年後に誕生しました。初代会長は北海道大学教育学部教授城戸幡太郎氏でした。旭川市の初代会長は市長でした。連合PTAの会長という地域もありました。育成会が各地で産声を上げたとき、沢山の英知と善意が手をつなぎ合ったのです。そして最も重要なことは、親の会としての出発ではなかったということです。

手をつなぐ親の会はあくまでも通称でした。精神薄弱児育成会では親が入会しづらいのではないかという配慮と単なる親子関係の親ではない、広い意味での親(人間の)として通称を手をつなぐ親の会としたのです。しかし20年もすると、親の会だから親が役員をやるべきだという意見が出てくるようになりました。そしていつの間にか親中心の会となってきたのです。

一昨年、障害者差別解消法が施行されて間もなく、津久井やまゆり園事件が起きました。「障害者は生きる価値がない」という人間の尊厳や命を否定する考えは、どのような理屈をもってしても肯定されるものではありません。しかし、一度に19人もの人が殺される大事件であったにもかかわらず、マスコミで氏名が公表されませんでした。

障害者が生活しやすい社会は、人間にとって生活しやすい社会です。誰にとっても生活しやすい社会の実現は障害者を持つ親だけの事業ではありません。

あなたの力を育成会に合流させましょう。一人一人の力は小さくても、合わさる事によって実現できる事はたくさんあるのです。育成会はいつでも門を開いて待っています。

北海道手をつなぐ育成会
会 長 佐藤 春光